『方丈記』は「随筆」ではない。

 東京書籍の高等学校「古典」の教科書の話。

 東京書籍の高等学校「古典」の教科書の中に、鴨長明の『方丈記』が取り上げられている。
 その『方丈記』の作品解説に、『方丈記』は「随筆」とはっきり記載されている。そして、『方丈記』と、『枕草子』と『徒然草』の3つを並べて、「三大随筆」と、これまたはっきり解説記述されている。
 しかし、『方丈記』と『枕草子』&『徒然草』の3つを並べて「三大随筆」というのは、かなり問題ではないかと思う。

 岩波文庫の3作品を机の上に並べて見れば、1つだけ異質なのは、小学生でもわかる。これは、作品1つ1つを、すべて読まなくてもわかる。本当に小学生でもわかることである。
 『方丈記』と『徒然草』とを、作者の比較をするのは作品理解として可能であろう。また、『枕草子』と『徒然草』を、「随筆」というジャンルを理解するために比較するのも有効だろう。

 しかし、『枕草子』と『方丈記』の比較は、かなり無理があるのではないだろうか。この2作品を、同じ「随筆」として一括りするのは、それぞれの作品を理解していない証拠ではあるまいか。
 まして、「教科書」の中で、「三大随筆」と一括りするのは、受験の知識に毒されているのではないか?

 教科書検定と言うものがあるが、『方丈記』を「三大随筆」と一括りし、『方丈記』の作者鴨長明を「随筆家」の肩書きを与えてしまっている。これでは、鴨長明をエッセイストだと勘違いする者も出て来ようもの。教科書を検定するお役人も、『方丈記』をお読みになっていないようだ。読んでいたら、こんな常識(コモンセンス)で判断できるようなものを見逃すはずないもの。

 未だに受験参考書の記述や予備校の教師の指導の中に、「三大随筆」という「暗記」が繰り返されている。それが為に、受験の知識として「三大随筆」が再生産されている。

 「三大随筆」という受験の知識が、受験の知識として繰り返され、再生産されているのは仕方あるまい。受験の知識というものは、所詮、そのようなもの。受験の時に、正解にされる知識が「受験の知識」なのだから。
 しかし、教科書の知識は別であろう。

 教科書の中で、『枕草子』と『徒然草』を比較して「二大随筆」というのは、作品理解する為に可能有効かもしれない。
 (しかし、作品の本質にあまり価値のない「二大随筆」という一括りに、どれだけ意味があるのか?! ただ並べて見せるだけでは、作品の本質の理解に繋がるまい。所詮、受験の知識はつまらない知識である。)

 この3つの作品をひとまとまりにした知識を聞いて、「一括りするのに、少々無理があるのではないか」と考える生徒もいたのではないかと思う。
 この3つの作品を並べて「三大随筆」と呼び始めたのは、一体いつからなのか。また、最初に言い始めたのは一体誰なのだろうか? 昔から疑問に思ってきた。

 更に、東京書籍の高等学校「古典」の教科書では、作者鴨長明は「随筆家」だと解説されている。
 実に酷い説明ではないか。『方丈記』という作品を、手にとって読んでみれば、とても「随筆」というジャンルの作品ではないことに、誰でも気づく。作者鴨長明を「随筆家」と教えるのは、『方丈記』に関して「無知」であることをさらすようなものである。

 また、『方丈記』の作者は「鴨長明」ではない。作者は、はっきりと自分で名乗っている。『方丈記』の最後の最後まできちんと読めば、作者は「鴨長明」ではないことにも誰でも気づくはず。(「マンガ脳」のアホウ首相には、何のことやら、わからんだろよ。)

 学問の進歩は遅い。しかも、学問の進歩を妨げるものの一つは、受験の知識である。受験の知識は、学問の真実とは全く別のものである。だから、受験の知識はくだらないのである。
 受験の為の勉強は、百害あって一利なし。受験の知識は、受験の知識であって、「学力」ではない。だから、「受験の知識」を「学問の真実」だと信じて、受験のために青春を費やすのは愚かなことである。受験勉強は、しないで済むのなら、しないに限る。
 
 『方丈記』は、どこをどう見ても『枕草子』『徒然草』と同じ「随筆」とは考えられない。一々読まなくても、3つの作品の文庫本を並べただけでも、一つだけ他と違っているのに誰でも気づく。
 小学生でも、一つだけ違うことはわかる。それなのに、高校の「古典」の教科書に、鴨長明は「随筆家」とはっきり解説記述されている。酷い話だ。

 そして、『方丈記』と、『枕草子』&『徒然草』の3つの作品が「三大随筆」と、繰り返し教えられ、再生産されている。全く、受験の知識とは、かのようにくだらないものなのだ。
 全国の受験生の健闘を祈念する。そして、「受験の知識」の愚かさに気づき、「受験」から早く解放されんことを、切に願う。


            《 『方丈記』関連記事 》


1)国語の教科書の間違い          https://kiyosige.at.webry.info/201808/article_9.html
2)学問の停滞、消える学問「国文学」   http://kiyosige.at.webry.info/201306/article_3.html
3)方丈記について、最近考えていること。  http://kiyosige.at.webry.info/201701/article_1.html
4)『方丈記』はつまらぬ駄文なのか (大槻義彦元早稲田大学教授のブログから)
                           http://kiyosige.at.webry.info/201307/article_3.html 
5)『方丈記』は「随筆」なのか?       http://kiyosige.at.webry.info/201701/article_5.html
6)『方丈記』は「随筆」ではない。      http://kiyosige.at.webry.info/200901/article_2.html 
7)「三大随筆」                 http://kiyosige.at.webry.info/201002/article_1.html
8)昭和の時代の受験の知識「三大随筆」の誤りを正す。 https://kiyosige.at.webry.info/201909/article_1.html
9)方丈記の「無常観」について       http://kiyosige.at.webry.info/201605/article_6.html
10)随筆『徒然草』の作者は?         http://kiyosige.at.webry.info/201802/article_5.html

■蓮胤の「方丈記」論_関係記事一覧 https://kiyosige.at.webry.info/201909/article_8.html


            《 参考文献 》

1)方丈記―付発心集(抄) 現代語訳対照 (1981年) (旺文社文庫) https://www.amazon.co.jp/%E6%96%B9%E4%B8%88%E8%A8%98%E2%80%95%E4%BB%98%E7%99%BA%E5%BF%83%E9%9B%86-%E6%8A%84-%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3%E5%AF%BE%E7%85%A7-1981%E5%B9%B4-%E6%97%BA%E6%96%87%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB/dp/B000J80OLS/ref=sr_1_20?s=books&ie=UTF8&qid=1509421751&sr=1-20&keywords=%E6%96%B9%E4%B8%88%E8%A8%98+%E6%96%87%E5%BA%AB
2)『方丈記』と仏教思想 Kindle版 https://www.amazon.co.jp/%E6%96%B9%E4%B8%88%E8%A8%98-%E3%81%A8%E4%BB%8F%E6%95%99%E6%80%9D%E6%83%B3-%E4%BB%8A%E6%88%90%E5%85%83%E6%98%AD-ebook/dp/B00PMD0MVW/ref=tmm_kin_swatch_0?_encoding=UTF8&qid=1509422155&sr=1-15 

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この記事へのコメント

あいうえお
2016年07月25日 18:34
なぜ自分が方丈記は随筆でないと思ったかの理由が述べられておらず、全く意味が分かりません。
随筆でないなら、高校の国語の批判のみならず、自分が随筆でないと思った根拠を連ねる方が読者にとってもあなたにっても有益なブログになると感じます。
通信の仙人
2017年09月01日 16:54
『枕草子』は「草子」である。『徒然草 』は「草(草子)」である。それに対して、『方丈記』は「記」である。書名、名称は、作者名同様疎かにしてはいけないものである。この「草子(草)」と「記」の書名の違いについて、きちんと理解している国語教師は少ない。『方丈記』は「随筆」ではないと、疑問に気づいた生徒は、近くの国語教師に尋ねて見るとよい。その違いを理解していて、明確にその違いを説明してくれる国語教師は少ないものである。勿論、この違いが分かっていない教師は、決まって『方丈記』を「随筆」といい、「三大随筆」と覚えろと受験の知識を注入してくれるはずだ。
通信の仙人
2017年09月01日 16:54
大学の卒論の話をしていて、その方は小野小町を卒論にするという。「ん~。」 何をテーマにしても自由であるが、いまさら「小野小町」?! どこをどうほじくっても、何も(新説)は出て来まい。高校生の課題レポートなら、定説をなぞれば高得点だろうが、それでは大学の「研究」にならない。国文学、日本文学はすでに研究し尽くされて、もはや研究テーマはないのかと思う。さて、「あいうえお」さんのコメント。はじめてのリアクション、建設的なご意見をいただきました。「随筆でないと思った根拠」は、すでに書き散らかしておりました。今回、建設的なご意見をいただきましたので、リンクを張ることにしました。ご意見をいただければ幸いです。「最近考えていること」は、浄土宗の開祖法然(長承2年(1133年) - 建暦2年(1212年))と方丈記の作者「蓮胤(俗名:鴨 長明、久寿2年(1155年) - 建保4年閏6月10日(1216年7月26日))は同時代人であり、お互いに「大原」に住居していたことは歴史的事実である。法然の布教活動を「蓮胤」は知っていて、「傍に舌根をやとひて、不請の阿弥陀佛、兩三遍申して止みぬ」という「(浄土教の)悟りの境地」に至ったのではないか。「蓮胤」は法然の「専従念仏」の影響を受けているのではないかと思い、法然と「蓮胤」の関係性について興味を持っています。ただ残念なことに、二人の関連性、接触を証明する文献史料は皆無であり、その証明は困難です。二人の関係性を証明できれば、〈定説〉は覆り、学問は一歩前進します。今、法然の大原の「別所(=仏教寺院の本拠地を離れた所に営まれた宗教施設。聖とよばれる僧侶が寺院周辺などに集まって修行するために庵や仏堂を設けた場所。)」での生活、法然流の「専従念仏」の布教状況に関心を抱いております。「蓮胤」を日本思想史の上に位置づけられないものか、あれこれ思案、検討しています。

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