『方丈記』は「随筆」なのか?

 国語の教師はおしなべて、『方丈記』は「随筆」だと言い、三大随筆を覚えろと言う。国語の教科書に、『方丈記』は「随筆」である、「三大随筆」とある。しかし、『方丈記』は「随筆」なのだろうか?! 国語の教師がそう教えるから、国語の教科書にそう書いてあるから、しかし、それは本当だろうか?! 自分の頭で考えてみよう。

 私の言っていることが、嘘か真か。①まず国語の教師に、「随筆」とは何か、聞いてみよう。

 おそらく、国語の教師は決まって「つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書き」つけたものだと説明してくれるだろう。

 ところが、『方丈記』の、有名な冒頭部分を読んだだけでも、「違和感」に気づくはずだ。『方丈記』が「つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書き」つけたものでないことは、すぐに分かる。気づくはずだ。

 また、『枕草子』は、「枕」の意味に諸説があり、一つの作品としての統一について未だ解明されていない。それが「随筆」の特徴であると言える。

 ところが、『方丈記』。冒頭の部分を読んだだけでも、1)『徒然草』の冒頭のような「つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書き」つけたものではないことに気づく。そして更に、2)『方丈記』は、統一について未だ解明されていない「枕草子」とは違い、論理的構成がはっきりとしており、最後まで一貫した「起承転結」を見てとれる。何処をみても、類従的章段、日記(回想)的章段、随想的章段などという章段構成を、『方丈記』から見ることが出来ない。どこをどう見たら、『方丈記』は「随筆」と言えるのだろうか? 国語の教師の言う、「三大随筆」なんか、おかしくないか?

 ②なぜ、『方丈記』は「随筆」なのか? 国語の教師に聞いてみよう。きちんと『方丈記』が「随筆」だと答えられる「教師」はいるまい。きまって「教科書に書いてあるから」と逃げるはずだ。教科書に書いてあるから、だからそれが正しい?? 本当だろうか? それで納得できるだろうか?

 さて、『方丈記』は「随筆」なのか? 「随筆」でないのか? それは自分の頭で考えてみよう。世の中、教科書に書いてあることが正しいとは限らない。ところが、世の中、『方丈記』が「随筆」であるかどうかさえ、わかっていない教師が多いものだ。

 ③目の前に、岩波文庫の『枕草子』『方丈記』『徒然草』の三冊を並べて置いて見れば、この中で一冊だけ「異質」なのがすぐ分かる。小学生だって一冊だけ「違うこと」に気づくのに、世の、国語の教師は『方丈記』は「随筆」だと言い、「三大随筆」を覚えろと言う。

 本当に『方丈記』は「随筆」なのだろうか?? 自分の頭で考えてみよう。「真実は常に一つだ」、byコナン。

■蓮胤の「方丈記」論_関係記事一覧 https://kiyosige.at.webry.info/201909/article_8.html

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この記事へのコメント

通信の仙人
2017年09月20日 18:41
『枕草子』は「草子」である。『徒然草 』は「草(草子)」である。それに対して、『方丈記』は「記」である。書名、名称は、作者名同様疎かにしてはいけないものである。この「草子(草)」と「記」の書名の違いについて、きちんと理解している国語教師は少ない。『方丈記』は「随筆」ではないと、疑問に気づいた生徒は、近くの国語教師に尋ねて見るとよい。その違いを理解していて、明確にその違いを説明してくれる国語教師は少ないものである。勿論、この違いが分かっていない教師は、決まって『方丈記』を「随筆」といい、「三大随筆」と覚えろと受験の知識を注入してくれるはずだ。

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