「方丈記」の作者鴨長明は、「随筆家」ではない。

 とにかく、

 ①「方丈記」の作者は、鴨長明。
 ②「方丈記」は、随筆。
 ③「枕草子」「方丈記」「徒然草」の3作品は、「三大随筆」で、受験頻出のため、覚えなければならない。

 世の中、あふれて居るのは、こういった黴の生えた、「昭和の受験の知識」ばかり。それがまた、「令和」の時代に、何の疑問も持たずに、再生産されている。世の中、自分の頭で考えていない、考えられない。いや、それ以前にちょっと考えればわかるようなことが、そのまま何の疑問もなく「再生産」され続けている。「受験の知識」などくだらないものである。「受験の知識」など、受験の時にしか役に立たない。そんな「受験の知識」に青春を費やすのは、何とも勿体ない。しかし、ネットの中でも、あふれて居るのは、「昭和の受験の知識」ばかり。何の疑問もなく、再生産され続けている。

 「アクティブ・ラーニング」だの、「主体的・対話的で深い学び」だのと言ったって、「方丈記」が「随筆」なのかわかっていない、「三大随筆」がおかしいことにも気づいていない。未だに、暗記、記憶の「受験のための知識」がのさばっている。

 さて、今日も「方丈記」に関する啓蒙活動。「方丈記」の作者は「随筆家」ではない、という話。

 まずは、「文学」という概念は、明治維新以降、日本に外国文学が紹介される中で使われ始めた概念である。そもそも、古典文学の中に、近代的な「文学」概念は存在していない。古典文学に対して、近代的な「文学」という概念を持ち込み理解しようということは、古典文学の中に、近代的な概念である「文学なるもの」を見つけようということになる。多くの日本文学者(古くは、国文学者。外国人の視点から「日本文学」をアプローチする学者は、また別の認識になるか。)は、この点に関して、無自覚な学者が実に多い。

 具体的に思考するならば、なぜ紫式部が「源氏物語」を書いたのか。古典文学の中に近代的な思考を持ち込むと、「(物語)文学」を表現したかった、ということになる。しかし、平安時代の紫式部に、そもそも近代的な「文学」の概念自体がない以上、紫式部が(「源氏物語」を書いて)「〈物語〉文学」を表現したかったというのは、全く的外れ、間違いであろう。

 古典文学を理解する、一つの思考法が「文学仏教一元論(※仏教の教えを弘通するために書いた。)」。つまり、「仏教文学」の視点である。実際に、仏教文学会という「学会」もあり、アカデミズムの学問として認められたものである。しかし、多くの古典文学者の仏教理解が低く、古典文学を近代的な「文学」概念理解で捉える「文学仏教二元論(※仏教と文学は別物と考え、執筆の動機を「文学」の発露と捉える。)」ばかりがまかり通っている。英文学を勉強するためには「聖書」の理解が必須であるのに対し、古典文学の研究に対する「仏教」の理解が低いのが現状である。だから、女人往生思想や、また「変成男子」の理解がないから、「更級日記」の主題は「物語への憧れ」である、といった「受験の知識」が再生産され続ける(※いずれ、別の項で論じる。)。

 古典文学の研究、理解は「文学仏教二元論」か、「文学仏教一元論」か。あるいは、古典文学の中に近代的概念である「文学」を持ち込んで良いのか、いけないのか。実は、こういう問題こそ、「受験の知識」ではなく、「アクティブ・ラーニング」「主体的・対話的で深い学び」でしっかり思考、考察が必要なのではあるが、多くの「古典文学者」は無自覚であるようだ。

 さて、本題の、「方丈記」は「エッセイ(随筆)」なのか、どうか。

 「エッセイ(随筆)」なるジャンルは、そもそも古典文学の伝統の中に存在しない。学校の国語の先生も。明治維新以降の「日記」と、古典文学の中で使われる「日記(文学)」は別物である、と「受験の知識」を伝授してくれるだろう。当然、明治維新以降の「文学」のジャンルである「エッセイ(随筆)」と、古典文学の中で使われる「随筆〈文学〉」も別物、違うもの であるはず。しかし、「受験の知識」は、古典文学の中で使われる「日記(文学)」は別物である、としか伝授されない。そして、黴の生えた「受験の知識」は、「方丈記」の作者鴨長明は「随筆家」と教えてくれる。嘘か真か、手元に国語の教科書、副教材(便覧、文学史の本)があれば、確かめて見ると良い。恐ろしいことに、現在も流通している日本文学史の、副教材の本の発行年をみると、悉くが「昭和」であり、昭和の大先生執筆の本である。時は「令和」。2020年に「新テスト」が実施されるといい、「アクティブ・ラーニング」「主体的・対話的で深い学び」だのと言われている時代に、未だに「昭和の受験の知識」が化石のように生きている。そして、無自覚に「再生産」され続けている。受験頻出だから覚えろと、「三大随筆」が再生産され続けている。

 「昭和の受験の知識」である「三大随筆」が再生産され続ける。しかし、一番問題なのは、「方丈記」の作者は「随筆家」、という記述。

 文科省の検定済みの教科書に、「『方丈記』の作者鴨長明は、随筆家。」とあるものがある。「方丈記」たった1冊をもってして、「随筆家」と記述するいい加減さ。かつ、乱暴さ。こんな「雑な検定」がなんでまかり通っているのか、実に不思議である。

 作者鴨長明(蓮胤)に「随筆家」なる肩書きを与えるのは、近代の「文学」の概念である「エッセイ」と、古典文学の一ジャンルとしての「随筆文学」を同一視、混同を招くものである。勿論、初学者に「随筆家」なる肩書きで作者紹介すれば、鴨長明(蓮胤)は「エッセイスト」だと誤った理解をするし、方丈記は「エッセイ」だと勘違いさせる。ましてや、これを放置し続ければ、外国人の「日本理解」において、鴨長明(蓮胤)は「エッセイスト」であると、流布、拡散、定着させることになる。外国人に間違った「日本理解」を定着させることは忍びない。これが、今回の啓蒙活動のテーマである。

 古典文学作品である「方丈記」の、作者の解説、説明に、安易に「随筆家」の肩書きを与えてはいけないのである。これが結論。


■蓮胤の「方丈記」論_関係記事一覧 https://kiyosige.at.webry.info/201909/article_8.html

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