「方丈記」の作者の「出家」を考える。(「国文学」は死んでいる学問である。)

(既に、「国文学」も「古典文学」も、死に絶えた学問。いまさら、「方丈記」について考察しようと、誰も興味も、関心も抱くまい。当然、「方丈記」が「随筆」であろうと、「作者は鴨長明」であろうと、なかろうと、世の関心は何もあるまい。受験の知識として、「作者鴨長明」「随筆文学」「三大随筆」という知識が必要であり、何の問題も無い。以下、世に「三大随筆」と呼ばれる、「随筆文学」の「方丈記」の作者、「鴨長明」の出家について考察したい。基本、受験の知識「三大随筆」「随筆文学」「作者鴨長明」については、疑義を挟まないことにする。)


ここで問題とするのは、俗名「鴨長明」が、出家発心して私度僧「蓮胤」になった。仏教文学「方丈記」の作者「蓮胤」の出家についてである。


通説としては、「元久元年(1204年)、かねてより望んでいた河合社(ただすのやしろ)の禰宜の職に欠員が生じたことから長明は就任を望み、後鳥羽院から推挙の内意も得る。しかし、賀茂御祖神社禰宜の鴨祐兼が長男の祐頼を推して強硬に反対したことから、長明の希望は叶わず、神職としての出世の道を閉ざされる。そのため、後鳥羽院のとりなしにも関わらず長明は近江国甲賀郡大岡寺で出家し、東山、次いで大原、後に日野(現・京都市伏見区醍醐)に閑居生活を行った。」ということになっている。


確かに、河合社の禰宜任官が、蓮胤の出家遁世の引き金であるが、しかし、河合社の禰宜になれなかったから、「出家遁世」をしたと言うのは、余りに唐突、短絡的、衝動的ではないか。また、それが「出家遁世の原因」だとしたら、唐突、短絡的、衝動的過ぎて、蓮胤の発心、結縁、菩提心も軽々しいのではないか、と考えてしまう。出世遁世して世捨て人になる、私度僧、聖になる、ということの意味の軽さが支持できない。


以後、蓮胤は私度僧、聖として生活していく、そんな軽々しい「出家遁世」で、「遁世者」と言ってよいのだろうか。


そこで思うのは、夏目漱石「こころ」である。主人公「私」の親友、「K」の自殺である。親友「K」は、ずっと「死にたい」「死にたい」と思っていた、しかし、「K」には「死ぬ理由」も、「死ぬきっかけ」もなかった。その為、「死ぬきっかけ」もなく、死ねないでいた。そこに、下宿お嬢さんと、主人公の「私」の結婚が、下宿の奥さんの口から知らされる。お嬢さんとの結婚の話を聞き、「K」に「死ぬ理由(死ななければならない理由)」と、「死ぬきっかけ」が出来た。実は、「K」は、自分が死ななければならない、「理由」と「きっかけ」を探していた。「K」は、「死ぬきっかけ」がなかったがために、「自殺」が出来ないで居た。これは、夏目漱石「こころ」の話。


「方丈記」の作者、蓮胤の出家遁世も同様に考えられないか、と思う。鴨長明は、幼くして、後ろ盾の「父」を失い、「みなし子」として生きざるを得なかった。そのため、いつの頃からわからないが、「出家遁世したい」「遁世者になりたい」という思いを抱いていた。


鴨長明の出家の「大義名分」は、末法思想に基づくものであろう。院政期、末法思想が広まっており、それに伴って浄土教も広まっていった。そして、「極楽往生」を願って、「聖(私度僧)」として隠棲者、隠遁者生活をするものが現れてくる。したがって、鴨長明が出家を望んだ「大義名分」は、末法思想に基づいて、「極楽往生」を願っての出家である。


しかし一方で、鴨長明は「みなし子」として生きざるを得なかったがため、自らの才能、才覚で、「和歌管絃」の道で生きざるを得なかった。


そして、その自力で生きてきた「人脈」で、夢にも思わなかった、降ってわいた河合社の任官の話が、後鳥羽院の取りなしでもたらされたが、亡き父の弟鴨祐兼によって、「道」は閉ざされてしまう。これを、「引き金」「きっかけ」として、いつの頃からか抱いていた、「出世遁世」して、私度僧、聖として生きるという生き方を踏み出す。


このように、「方丈記」の作者の、出家遁世の決意を、もっと丁寧に推測すべきでは無いかと思っていた。


鴨氏は、下鴨神社ゆかりである。相模国の寒川神社は、相模川を祀った神社であるが、上賀茂神社は「賀茂川」、下鴨神社は「鴨川」をそれぞれ、古代の荒ぶる川を祀った社であろう。その下鴨神社の神官の子として、鴨長明は誕生した。しかし、鴨長明は幼くして、下鴨神社の正禰宜であった父を亡くす。これによって、鴨長明は、「みなし子」となる。つまり、「後ろ盾を失った子ども」である。「後ろ盾の亡い子」については、紫式部の「源氏物語」でも繰り返し使われる。「後ろ盾のない子」に、展望はない。世襲の歌舞伎の世界も、幼くして父(師匠)を失った「子」の苦労は並々ではない。


「同族他家との接点を持たず、神への奉仕もせず」と、鴨祐兼の川合の禰宜の道を阻まれるが、「みなし子」の鴨長明の宿命である。鴨長明は、幼くして父を亡くした後、後ろ盾のない「みなし子」として、彼は一人で生きてきた。和歌の道、管絃の道は、自らの能力で己の道を切り開く、「みなし子」が「一人」で生きるための道であった。すでに年若きを過ぎて、川合の禰宜の道が開かれるかにみえるが、「みなし子」鴨長明の宿命であったと思う。


やはり、1)最初の論点(疑問に思う点)は、鴨長明の出家の理由である。①川合社の禰宜の道を閉ざされた。②秘曲づくしの一件、③源実朝の和歌の師になれなかった。いくつかのターニングポイントはあるが、出家をしょうと思った、厭世の思いを抱くものは何だったのか。まず、1点。


2)和歌と管弦を嗜んだというが、昔から言われる「数寄者」である。鴨長明の和歌と管弦は、現代でいうところの「趣味人」のレベルではない。幼くして父を失い、後ろ盾を失った「みなし子」鴨長明が、自らの生きる道が「和歌」「管弦」であった鴨長明の信仰と「和歌」「管弦」の道をとう折り合いをつけるか。一般的、常識的な理解は「数寄者」。つまり、「趣味人」鴨長明のイメージである。「数寄者」のイメージが強く、鴨長明の「私度僧」「聖」としてのイメージが認識されていない様に思う。『方丈記』の跋文で、蓮胤(鴨長明)が、わざわざ「桑門蓮胤、外山の庵にしてこれをしるす。」と書き記しているのに、作者「鴨長明」と、俗名、在家だったころの「歌人」として名前で呼ばれる。方丈記の作者蓮胤は、通説、一般的に、俗人、「数寄者(趣味人)」と軽く見られがちである、「私度僧」「聖」に徹しようとする「蓮胤(俗名:鴨長明)」の、信仰は、どのように考えるべきか。


「方丈の庵」での、鴨長明の「信仰生活」はどうだったのか。鴨長明は、律令制に組み込まれた「官僧」ではない。世は既に、藤原氏の「摂関政治」の時代は終わり、平安末期「院政期」。律令制度の「僧尼令」も過去のもの。藤原道長の時代以降、末法思想が庶民の間にまで広まり、日本の「浄土教(浄土信仰))が展開してくる。鴨長明は出家遁世者、つまり、「聖(私度僧)」である。出家遁世者であるから、「官僧」ではないので、戒壇にて正式に「受戒」していないし、高野山や比叡山延暦寺に入って、正式な修行生活を送っていない。勿論、「官僧」としての正式な受戒、学問も受けていない。確かに、鴨長明の「方丈の庵」には、南都六宗の「経蔵」のお経の類は一切見当たらない。では、鴨長明の方丈の庵での、信仰生活はどのようなものだったのか。


ここで、再び論点整理をしよう、論点①鴨長明の「信仰生活」はどのようなものか。②「方丈記」の「方丈の庵」の中に出てくる、「和歌」「管絃(×弦)」をどう捉えるか。鴨長明の信仰と、「和歌」「管絃(×弦)」道との折り合いのつけ方。どう折り合いをつけるか。そして、③結論として、鴨長明は、果たして「数寄者(=趣味人)」であったのか。


論点①。まず、「和歌・管絃・往生要集ごときの抄物を入れたり」とある、「往生要集」があると言うことは、浄土教の信者である。心に「阿弥陀如来」を持っているものは、「念仏者」という。確かに、持仏として「阿弥陀の絵像」が安置してある。鴨長明は、心に阿弥陀如来を持つ「念仏者」である。しかし、そばに「普賢(菩薩)」の掛けている。阿弥陀如来と共に、「普賢(菩薩)」も持仏であるようだ。しかも、「普賢(菩薩)の前に、法華経を置いている。当然、この法華経は「蓮華経普賢菩薩勧発品」か。


引用)「蓮華経普賢菩薩勧発品第二十八」とは、「法華経普賢菩薩勧発品第二十八のこと。法華経四要品の1つ。東方の普賢菩薩が娑婆世界に来至し、釈迦に如来滅後に如何にして法華経を持つかを問い、これに対して仏は四法を説いたので再演法華ともいう。(1)多くの仏に仏の護り念ぜられることができること。(2)多くの徳の本を植えられること。(3)必ず解脱を得るに至る位に入ること。(4)一切衆生を救う心を起こすこと、の4つである。これに応えて普賢は後五百歳の濁悪世に法華経を受持する行者を守護し、法を守ることを誓っている。」更に詳しくは、法華経普賢菩薩勧発品第二十八



「普賢(菩薩)」が持仏であって、法華経を読経するとなると、鴨長明は、心に法華経を持つ「持経者」?! 因みに、心に「キリスト」を持つ持つ者は、「キリスト者」。


鴨長明は、心に「阿弥陀」を持っている「念仏者」なのか、それとも、心に法華経を持っている「持経者」なのか。


鴨長明の「方丈の庵」での信仰は、比叡山延暦寺系統の「天台浄土教」である。鎌倉新仏教の開宗者はみな比叡山延暦寺で修行したように、伝教大師最澄は、唐から法華経を持ち帰ったが、同時に、浄土教も禅も同時に日本に伝えた。日本の浄土教の展開は、伝教大師最澄が唐より伝えた「天台浄土教http://www.hozokanshop.com/Default.aspx?ISBN=978-4-8318-7384-2 」に始まる、天台浄土教の特徴は、「朝題目夕念仏 」である。朝のお勤めは、法華経の読経。夕刻、沈み行く太陽に向かって、極楽浄土を「観想」し、合わせて、極楽浄土の「阿弥陀仏」を観想する。つまり、西に沈む夕日に向かい、「観想念仏」をしながら念仏を唱える。


当時、仏教者蓮胤と同時代人の、法然による「称名念仏」は始まっており、日本浄土教は、「観想念仏」から「称名念仏」へと、更に「専修念仏」へと日本浄土教は展開しつつあった。


日本天台浄土教の祖は、源信であり、慈円は、天台座主であった。皮籠の一つに往生要集を入れ、その往生要集は、「易行とも言える称名念仏とは別に、瞑想を通じて行う自己の肉体の観想と、それを媒介として阿弥陀仏を色身として観仏する観想念仏という難行について多くの項が割かれている。」という。最晩年に、鴨長明は、仏教説話集「発心集」を成立させるが、もう一つの皮籠には、「和歌」が入っている。この皮籠の中に書き留めた「和歌」を、後でまとめたのが「無名抄」に違いない。


論点②。方丈の庵に「和歌・管絃」を持ち込んでいるから、鴨長明の仏教者としての「悟り」は浅い、宗教者としてのレベルは低い、鴨長明は「数寄者」である、というのは、「言われ無き、根拠のない決めつけ」である。例えば、「エレキギターをやると不良になる」という言説と同様、根拠のないものである。「方丈記」の中で、「和歌・管絃・往生要集」の扱いは同じ。3つ並べて、扱いは同列である。鴨長明の「方丈の庵」の中で、この3つの扱いは、「同列」「同様」なのである。


つまり、蓮胤の仏道修行は、禅の言葉で言う「行住坐臥」。庵での生活の一挙手一動作すべてが「仏道修行」なのである。「聖」において、「和歌・管絃」と「往生要集」は不可分なのである。「和歌」の道を究める。「管絃」の道を極めるのは、「浄土教の修行(往生要集)」と同列である。これを分けて考えることも、また、庵の中で「和歌」「管絃」をやっているから「数寄者」であるというのは、「エレキキターをやると不良になる」と同様の決めつけである。


最晩年の「無名抄」「方丈記」「発心集」の創作活動(執筆活動)も、それは仏教者蓮胤に取って、不可分の行為であった。


論点③。方丈の庵の鴨長明は、「数寄者(=趣味人)」なのか、それとも、「聖(仏教者)」なのか。はたまた、出家隱遁者(=世捨て人)なのか。それは、方丈の庵の生活の中での、鴨長明の信仰生活。そして、その修行(「和歌」の道を究める、「管絃」の道を究める)の姿を想像すれば、仏道修行をする「趣味人」ではないし、世に背く「世捨て人」の姿でもない。朝、法華経普賢品を読経し、和歌の道を究めようとし、また、管絃の稽古を通して「道」を極め、夕刻に夕日に向かって、西方極楽浄土を観想し、極楽浄土の阿弥陀仏を「観想」し、念仏を唱える、その姿は「聖(仏教者蓮胤)」そのものではないか。「和歌・管絃をやるから数寄者なのか」。それは繰り返すが、「エレキギターをやると不良になる」と同じ決めつけではないか。


この後、聖蓮胤は、「大原」から「日野の外山」に庵を移す。鴨長明に、大原の「別所」で何かあったのだろうか。


『方丈記』の最終章、「かたはらに舌根をやとひて、不請阿弥陀仏、両三遍申してやみぬ」を、往生要集の「観想念仏」ととるか、それとも、「舌根」という言葉にに意味を置いて「称名念仏」にするか、考えてしまう。この「かたはらに舌根をやとひて、不請阿弥陀仏、両三遍申してやみぬ」を、どう理解するか、大事ではないかと思う。


『方丈記』の最終章で、念仏者蓮胤は、閑居の気味を「仏の教へ給ふおもむきは、事のふれて執心なかれなり」と言う。この部分は、『発心集』序でも語っている。


仏の教え給へることあり。「心の師とはなるとも、心を師とすることなかれ」と。まことなるかな、この言。(発心集 序)


この蓮胤の「自己批判」部分で、いつも思うのは、ウィリアム・ジェイムズの「(宗教的)回心」である。


「(宗教的)回心(かいしん、英: conversion)」とは、「神に背いている自らの罪を認め、神に立ち返る個人的な信仰体験のことを指す。」

ウィリアム・ジェイムズの『宗教的経験の諸相』上・下巻(益田啓三郎訳、岩波文庫、1969-1970年) http://www2.hannan-u.ac.jp/lib/material/recommended/recommend_1811.html は、「聖人」たちの「宗教的体験」を紹介して、「宗教的経験」の分類を行っている。プロテスタント改革派では、「第二の回心」があり、「回心の二つの要素は悔い改めと信仰であり、聖霊によって新生した者が、回心を自覚するとされ、新生は神の側のことで、回心は人間の側の事であると定義される。」


仏道者蓮胤に於いては、「五十の春を迎へて、家を出て、世を背けり。」が「第一の回心」か。そして、「閑居の気味」の「悔い改め」が「第二の回心」であると、蓮胤の宗教心、菩提心を、私は重く捉える。やはり、『方丈記』は、「記」の文学の系譜と考えるよりも、「仏の教へ給ふおもむきは、事のふれて執心なかれなり」を説いた、「法語文学」と捉えたい。


ウィリアム・ジェイムズによると、「第二の回心」は、「第一の回心」と違って、「回心」によって、それまでの価値観まですべてが変わるとしている。


『方丈記』の最終章、「かたはらに舌根をやとひて、不請阿弥陀仏、両三遍申してやみぬ」で、ウィリアム・ジェイムズの言うところによる、「第二の回心」が起こったと、私は見たい。そして、その上で、「行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある人と栖と、またかくのごとし。」という境地に辿り着いたのではないか、そう考えたい。


それでも、『方丈記』の最終章、「かたはらに舌根をやとひて、不請阿弥陀仏、両三遍申してやみぬ」を、往生要集の「観想念仏」ととるか、それとも、「舌根」という言葉に意味を置いて「称名念仏」にするか、どちらとすべきか、決めかねる。


蓮胤が、「盆地(谷)」の大原の「別所」を出て、日野の外山に移り住んだのは、庵の場所(立地)、地形(盆地、谷地形)がよくなかったのかと考えた。日野の外山は、庵の場所、立地が良かった。庵の西方面の視界が良く、庵の中から沈み逝く「西日」を見ることができた。西日を見ながら、「観想念仏」ができる絶好のロケーションだった。だから、大原から移り住んで「5年(いつとせ)」とうことなのかと思った。


そう考えると、往生要集によって、日本の浄土教(浄土信仰)が庶民人まで広がり、浄土宗の開祖法然が出て、称名念仏の「浄土宗」が開教立宗され、念仏も往生要集の「観想念仏」から法然流の「称名念仏」へ変容し、そして更に、「専修念仏」となっていく。念仏者蓮胤の「かたはらに舌根をやとひて、不請阿弥陀仏、両三遍申してやみぬ」は、日本の浄土教(浄土信仰)の過渡期に位置づけれらるのではないか、と考える。


ただ、最後に思うのは、昭和の時代の「方丈記」=随筆、「三大随筆」が、平成の「30年」が終えたのに、「令和」の今でも受験の知識として「再生産」され続けていること。「中世文学」では、『方丈記』=「記」の文学の位置づけに、未だに「通説」にもなっていないということか。やはり、国文学は不要不急の学問か。

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